前にも書きましたGNHはチベット仏教無くして、実践は難しいと感じます。掲げることはできても、ブータンが実践できるのは個々のベースにビジョンがありますね。生きとし生けるものの命を大切にし、輪廻を信じているので、少しでも良く生きようとし、生き方に一本筋が通っています。揺るぎないビジョンがあるんですね。ダライ・ラマ法王のお話を聞かせていただき、いつも最初に仰るのが「すべての命は幸せになりたいと思っている」です。日本は輪廻転生も確信がなく、フワフワなので死生観もハッキリせず、怖さもあってか「死」を忌み嫌い、環境が「死」を意識させてくれません。死を意識してこそ、生が活きてくるんですね。介護の勉強してた時、上智のデーケン先生から「死の準備教育」を教えてもらい、それはカトリックがベースでした。私にキリスト教は難しく感じられましたが、人それぞれに合った死の受け入れがあると思います。日本は死も意識しないけど、同じように「幸せ」も意識しなさすぎるし、意識させない環境だと感じます。この2つは肝心なことです。とにかく忙しい(忙しいという字は、心をなくすと書きますね)。何のために仕事をしているのかと問えば、家族や自分のため、でしょうが、では、なぜ家族や自分のためにしているのか…と自答すれば、幸せのためではないでしょうか。仏教は物事に要因があって結果がある、必ず理由があり、何かあった場合は「検証」が大切で、科学的な面もあります。日本は「幸せになる」という明確なビジョンなく、生きている人が多いように感じます。仕事でやりがいを持ちバリバリ働くことも一見、幸せのようで、その時は満足かもしれないけど、家族や身体など、何かを犠牲にしていたら、それは本当の幸せではないと思います。リタイヤした時、虚しさを感じる方もいるでしょう。「ああ幸せだった」と死ねたらいいですよね。死後についてブータン人は明確なので、そのために今、良いことをし、祈りながら日々生きます。まず「私の幸せはなんですか?」と自問することが、最初の一歩のような気がします。生きにくい日本ですが、環境と自身の思考の2つの要因で、人は幸せか不幸かを感じると思います。環境を良くするのは、自分のためなんですよね。私はいつ死んでも良い、と思って生きるようにしています。ただ、子どもが産まれてからは難しいですが、でも、人は自死以外、いつ死ぬか分かりません。環境はとても大事。これほど大きな不安を抱かせる原発は無い方が良いし、原発には被爆が伴い、残念ながら今後、多くが病気となって苦しむのは確実です。自分の幸せを深く考えれば、家族・友達・地域・社会・国・地球が幸せであることを望むことになりますね。私も前は終電に乗って帰るような仕事で、やりがいもあって、それなりに楽しかったですが、週末はヘトヘトで親友に滅多に会えず。友人も休日出勤も多く、病気になりながらも頑張っているので、メールも控えました。返事を出すのに時間と労力を使わせるのは忍びなく、滅多に連絡いしないようしました。みんなどんどん身体を壊し、ギリギリな状態で仕事をし、辞めたら次がないから…と。ほどよく、仕事・身体・家族・友人とバランスよく出来る環境が幸せを作ると思います。極端はよくないですね。
最近は世界に残された秘境のように称賛されるブータンですが、そういった角度だけで見ない方がいいですね。ブータンと日本の違いをよく書いていますが、ブータンがダメとか日本のここが良くないとか、そういったレベルではなく、究極、生かされている命をどう生きるかという観点で、ブータン&日本、そして世界の素晴らしいと思うことを共有できたら、そして自分の記憶用とてしズラズラとしています。ブータンとの縁で人生の旅がどうなるか楽しみ。
(写真:ブータンに戻って来る時、飛行機が同じだった日本の方から、写真を送っていただきました。元気過ぎて大変)